
「お疲れ様で〜す。」
仕事帰りのロッカーで交わした挨拶が、最後の会話となったのだった。
翌朝、職場に電話があり、
「体調不良なので医者に行ってから仕事に向かいます。午後には行けると思います。」
と言ってたそうだ。
それがどうだ。
15時を過ぎても電話が掛かってくるでもなく、一向に会社に来る気配もない。
痺れを切らせた職場の上司は、慌てふためき、職場のおじさんの自宅に向かったのだった。
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●職場のおじさんの唐突の死。人生は儚すぎる。
しかしそこにあったのは…。
静かに息を引き取った職場のおじさんの姿だった。
享年63歳。
あまりにも突然すぎる死。
こんなにもあっけなく人生に幕が引けてしまうのかとにわかに信じられないでいた。
だってそうでしょ。亡くなる前日の夕方までロッカーでバカ話しして、明るく挨拶を交わしてたのだから。
●人が死んでも日常生活は続いていく。
職場のおじさんが亡くなっても、我が職場では翌日も何事もなかったかのように日々の業務に追われている。
それはそれでふっと思い返したときに、寂しい気持ちになるというもん。
と不安感に襲われてしまうのも無理もなかった。
それにしても作家の五木寛之は「大河の一滴」とはよく言ったものだ。
大河を下り、最後の一滴が岩にぶつかって人生の幕を下ろしたとしても、他人たる他の滴は、立ち止まるはずのない大河という時の流れとともに流れ落ちていく。
たとえ一つの命が途絶えたとしても、他人の人生はまだまだ続くのだ。
しかしその一滴一滴もいずれは岩にぶつかり弾け飛ぶ。それがいつなのかは知る由もない。
それが人生の醍醐味と言ってしまえばそれまでなのだが。
●喪に服す大事さと、今を生きる大事さと。
いくら「大河の一滴」とは言っても、やはり人が死んだからには、そこで一旦立ち止まり、喪に服す。そしてその人のことをしっかり思い返す時間が必要なのではないか、と思った。
忙しさにかまけ、それが出来ないでいるのも故人に対しての敬意が欠けているように思う。
多くの人に喪に服してもらうためにも、通夜や告別式などは、見える形でしっかりと執り行った方がいいのかもしれない。
そうでもしないと忙しい現代人の心に、その人の生きた証をぶっ刺すことができないからだ。
それと。
大河の一滴も、いつ弾け飛んで消え去ってしまうのかもわからないことを考えると、この瞬間を悔いなく生き抜かなくてはいけないと思わされた。
オレも明日あたり、家で朽ち果ててるかもしれないしな。
いつ死ぬかわからないことを常に考え、後悔のない人生をいつ何時もわずかな時間も無駄にすることなく生き抜く必要性を、その職場のおじさんには教えてもらった。
まったく、命張りやがって。
バカヤロウ。